一年経って

去年の今日、父が亡くなった。

 

早いものだ。

 

いなくなってなにが変わったのだろう。

 

この一年で自分はなにができただろう。

 

忘れることのない日付は、母についで二つ目となった。

 

11月26日

 

いい風呂

 

晩年は毎年熱海の温泉に一緒に入ったし、背中を洗うこともできた。

 

去年の夏、93回目の誕生日は風呂には入れなかったが、ビールで乾杯した。

 

 

今日は去年よりも寒い気がする。

 

今夜は熱燗で献杯しよう。

 

 

先日伊集院静氏が逝去された。

 

昔、銀座のクラブでお見かけしたことがあり、イメージのまんまの人だと思った。

 

いくつかエッセイや小説を読んだ。

 

伊集院氏は父と真逆のタイプだ。

 

でも、酒は好きだったから、よかったら一緒に飲んでやってください。

ドライバー

アメリカで初めてゴルフをしたのがもう30年以上前。

 

ってゴルフクラブの話ではなく、運転手の話。

 

 

先日、道を歩いていると、一軒家の玄関前から歩いてきた配達員とすれ違った。

 

片手に段ボール箱を持っていて、軽バンのハッチを開けた。

 

「△⁂£だろー、マジで!」

 

と独り言。

 

何を言ったかは聞き取れなかった。

 

推測するに、一回来て不在、そして再訪してまた不在の結果に腹を立てている、または時間指定なのにいない、そんなことだろうか。

 

車内にはぎっしりと荷物が積まれ、助手席に台車が狭苦しそうに積まれていた。

 

 

今朝は、歩いていた反対側のバス停をちらりと、なぜか見た。

 

3人が待っていた。

 

すると前方からバスがやってきた。

 

そのバスが私の横を通過して、後方のバス停に到着しようとしていたとき、路地を走っている女性を見つけた。

 

南米系の外国人のようだった。

 

かなり必死になって走っていた。

 

きっとバスに乗るのだろうと、彼女の先にはそれしか目的がないような所だったから、一目瞭然だった。

 

彼女のバスの車体にさしかかった

 

よかった、乗れて。

 

と思ったら、バスは走り出した。

 

バス停にぽつんと一人、彼女は立ち、時計を見ていた。

 

真っ直ぐの道なので、バスのサイドミラーから女性の走る姿は見えたはず。

 

わかっていて出発したのだろう。

 

時間に遅れるのがバスの通常だが、そこで数秒待つことくらい大したことないのではないか。

 

以前、バスが停まっていて、その横を後方から歩いてドア前に来たとき、ドアが開いた。

 

乗るのかと思って開けたのだろう。

 

その後ろにも前にも私しかいなかったのだから。

 

 

昔、運送屋で働いたことがあるから、時間に追われることでの焦りや苛立ちはよくわかる。

 

それで事故も起こしたことがある。

 

 

即興を学びはじめたとき、かれこれ30年近く前になるが、オーストラリアから来て指導してくれたリン・ピアスさんと食事したときのこと。

 

彼女の著作、インプロ(即興演劇)の本にサインをしてもらった。

 

そこで名前以外に書かれたのは、

 

yield

yield

yield

 

だった。

 

「ゆずる」という意味である。

 

そのときのレッスン中の私は、自分が、自分が、という感じでやっていた自覚があった。

 

即興が好きなのと、認めてもらいたいという想いもあったのだ。

 

そんな私を見て書いてくれた言葉だと思う。

 

インプロのたった一つのルール、「受け入れる」ためには、まず自分よりも相手を優先的に、相手にゆずる気持ちがなければならない。

 

それは簡単なことではなく、つい忘れがちになることである。

 

私が即興をやり続けているのは、好きだからと思っていたが、本当は必要だからということをそののち、数年経ってから気づいた。

 

yield

 

一生の課題である。

 

 

What a wonderful beach.


朝6時半から大勢の人々が、さまざまな目的で海に集まっていた。


俺はサーフィン。



しかし今日この海を訪れたのは、もう一つ目的があった。


中学3年の担任が海辺に住んでいることを知ったから、会いたいという願いだった。


美術の先生で変わった陶芸家だった。


それが今年テレ東『家着いて行ってイイですか』に出演していたことをネットで知ったのだ。


放送は観れないのだが、その記事によると、若い頃には大阪万博の太陽の塔の顔の部分を作ったと書いてある。


岡本太郎ファンの自分は、もう先生との出会いは必然だったとしか思えない。


朝の波乗りでも、新しいサーファーの知り合いができた。


次は昔の出会いをもう一度、と向かってみた。


自分が知っている場所にはいなかった。


しかし、そこの方が案内してあげると、軽トラを出してくれた。


着いて行った先に、先生はいた。


家に上げてもらい、そこからはずっと興味ある話を聞かせてもらった。


やはり岡本太郎。


それは中学のときには一切聞かされていない。



中央に岡本太郎。


これは先生が自分のPENTAXで撮った写真だそうだ。


だから本人は映っていない。


岡本太郎が大学出たての先生に敬語を使って色の調合を訊いたという話は、どれだけ岡本太郎が芸術に対して真摯に向かい謙虚だったかを知らされた。


その後の完成までの経緯や、瀬戸内寂聴との電話など、興味深かった。


他にも話がありすぎて、今度ノートを持って伺うことにした。


それに海岸まで歩いても1分位なので、自由に使ってくれと言ってくれた。


前の災害で、アトリエの屋根が崩れているが絵を描いて毎年千葉展に出品したり、陶芸教室を行ったりしてきて、畑では無農薬栽培の野菜を作ってる。






中学校一、変わった先生だと記憶していたが、一番素敵な先生だった。



卒業アルバムに先生が書いてくれた言葉は忘れない。


「人と人とのつながりをにしよう」


人生の先輩と

責任感が強く、優しさに満ちあふれた人。


どれだけ頭を下げても、お礼の言葉を言っても、返すことのできない恩人、その呼称も正しいかはわからない、一言で言うならば凄い人。


自分が未熟すぎて、言葉を発することもできずに、ただ苦しくなるばかり。


そんな自分に応援の言葉を投げかけ、背中を叩いてくれる。


こんな出会いを与えてくれた、父に感謝。


やったわ、やった

知り合いと趣味の話になった。


彼はヨーヨーをやっているという。


ヨーヨーを220個くらい持っていて大会とかも出てる、って趣味の領域なのかと驚いた。


子供の頃やったことがあり、コカコーラやスプライトのヨーヨーを持っていた。


近くの公園で大会とかもあって、赤いジャケットを着たうまいお兄さんが来て技を見せてくれた。


世代は違っても話が盛り上がると、彼も周りにヨーヨーの話をする人がいないからと喜んでくれた。


そして今日、彼が一つくれた。


同時にさまざまな技を軽く見せてくれたのだが、話しながらなんなくやっているそれはすごいテクニックで、手品みたいなものあった。


ヨーヨーは、構造がとてもシンプルで、遊ぶにもそれほど難しくないが、追求していくと可能性を無限に持っている。


さて、子供の頃に戻ってみるか。



他人だけど仲間

海の帰りに洗車をすることにした。


ジェット噴射される水でこびりついた花粉をとってやろうと。


コインしか使えないのがわかっていたが、自動販売機で何か買えばいいと思い、洗車場にイン。


缶コーヒーをホットにしようかアイスにしようか考えるのに時間がかかり、洗車のふき取りで熱くなるだろうと思い、アイスに決めて千円札を挿入。


すると戻ってくる紙幣。


よく見ると、釣り銭切れの表示。


まいったなあと自販機から離れると、スポーツカーを拭き取っていた青年が、「両替ですか?」と声をかけてくれた。


そうですと答えると、先にある建物の自販機行くしかないと教えてくれた。


礼を言って、洗車場を出たら、建物と反対方向に自販機が見えた。


こっちの方が近い、と思い走って行ってみると、そこも釣り銭切れ。


スポーツカーの彼の前を通るときに、あっち行ってみたことを報告すると、彼は釣り銭ないことを知っていた。


だから彼は建物を紹介してくれたのだ。


素直に、他に目をくれずに、まっしぐらに建物へ向かえばいいものを、私という男は……



建物入り口にある自販機について、迷ったあげく、何年振りかのコーンポタージュにした。


洗車場に戻り、やっと洗車できるぞと500円玉をインサート。


すると戻ってきた。


何?


投入口を見ると「新500円玉使用不可」の表示。


もう一度建物へ走り、今度はアイスコーヒーを購入。


全部100円玉で投入したことで、ようやく開始。



もっと素直に人の言うことを聞けばよかったが、そんなコミュニケーションをとれたことがうれしかった。


自分が拭き取りをし始めると、一台の車が洗車ブースに突っ込み、カップルが降りてきた。


2人は自販機に向かったが、ドリンクを買うこともなく、どうするとか相談しながら周囲を見回している。


「両替ですか?」と私は声をかけた。



きりたんぽ鍋

先日宅急便が届いた。

 

元FREECRUZメンバーのイチからクール便。

 

 

開けてみると、きりたんぽ鍋のセット。

 

前に父の家に行って、二人できりたんぽ鍋を食べたことがあった。

 

父は子供の頃から祖父の食堂を手伝っていたから料理が得意だった。

 

その手で作るものを久しく食べていなかったが、自慢のきりたんぽ鍋を食べに来ないかとよく誘われていて、イチと行ったのだった。

 

そもそもきりたんぽ鍋をそれほど好きでなかったので、あまり興味を示さなかったが、もう歳をとったのだから、父の手料理も食えなくなるだろうと思ったからだ。

 

それが本当に最後となった。

 

それを知ったイチが、わざわざ手配して送ってくれたのだった。

 

はじめて自分で作った。

 

 

父が作るのよりは薄味だったが、二人の思いが入っていてとても美味しかった。

 

一夜明けて

昨夜はいとこのヒロと久しぶりに長電話をした。


小さいときは覚えておらず、彼が東京に出てきて本格的親戚付き合いといえばいいのだろうか、そんな始まりから四半世紀が過ぎた。


年も二つ差で、血がつながっているといえばそれまでなのだが、どこか根っこの部分で深い親しみを感じるから、会ったときからお互いの距離を感じていない。


プロスキーヤーから一転して整体というサポートする側に変わった彼は、よく我々FREECRUZの公演後にマッサージをしてくれて、メンバー達ともすぐに仲良くなった。


母親が亡くなる前もいろいろと支えてくれた。


その後結婚して少し離れたところへ移り住み、なかなか会う機会がなくなった。


今回の父親のことにも誰よりも気にかけてくれて、連絡をくれたのだった。


そんな東北のあたたかい心の持ち主と話していると、日本酒が飲みたくなった。


年明け、うちの両親と共に盃を酌み交わそうと言って電話を切った。


高清水だな。




あらためて、父の言葉。


ヒロ坊、ありがとう。


旅立ち

本当にお別れ。


これからは心の中で生き続ける。


ありがとうございました。



良き師

先輩のあたたかな気遣いにただただ頭が下がる思いだ。


40年近くの付き合いでお世話になってきた。


きっとこれからも。




感謝